社団法人全日本愛鱗会会誌「日鱗」 No.483 2008年2月15日発行


 

生産者レポート
淡水魚類開発研究所  郡山錦鯉センター

中野養鯉場



強く、素晴らしい、新しい鯉を



日本有数の金魚の生産を誇る大和郡山。
ここに数々のオリジナル品種を
生み出した人がいる。
しかし、単なる遊び心から
始まったことではない。
その裏に、業界の今後を憂う思いがあった。


大和郡山

 JR郡山駅からタクシーに乗車した。
目的地に到着するまでに、いくつもの養魚場の看板が目に入る。錦鯉店もあるにはあるが、その殆どが「金魚」の生産販売店。
 中には原産地中国輸販売を掲げる店もある。
 奈良県大和郡山市。享保年間より金魚養殖が盛んで、その歴史240年余り。日本最古であり、国内三大生産地の一つに数えられる。
 今回訪ねたのは、中野養鯉場。この辺りの養鯉業が、概ねそうであるように、金魚の生産販売と兼業で、創業約130年。
 迎えてくれたのは、4代目社長の中野重治氏。昭和2年生まれの御年81歳だが、10歳は若く見えると言ってもお世辞にはならない。

中野の紅鯉
 中野養鯉場が錦鯉の生産を開始したのは先代の頃。
 「それで売出したのが、中野の紅鯉。
当時は農薬なんて使ってないから、鯉の稚魚を放流して田んぼの除草に使ってね。黒鯉だったら面白くないから、色鯉というものが流行ってたんだ」。
 近畿一円に、中野の紅鯉が行き渡った時代があった。当時は錦鯉を色鯉と呼ぶのが一般的で、販売も天秤担いで行商の旅に出た。
 もちろん、冬場に温度をかける施設もない時代。それでも錦鯉業界は脈々とその伝統を守ってきた。
 そこを振り返ってまた現在を凝視すると、中野氏の憂いが垣間見える。

過保護が生む病疫
 「我々、業界の人間がもう少し早く目を覚ますべきだったのではないかと思いますよ」。
 中野氏は現在の病を作りだしたのは人間であると語る。
 「動物である以上は、自分の身を守るために、自然界に耐えて行けるように免疫力を持っておる。愛好家が自宅で過保護にする分にはいいけど、生産する立場の人がそれを忘れて、鯉が四季を忘れてしまうようになっていってるわけですね」。
 そして、薬剤の乱用が拍車をかける。
 「抗生物質というものがどんどん出てきて、病気と追いかけっこ。生産者から市場に出た時に、すでに免疫力を失っておる。そんな魚はヘルペスでなくとも変な病気にかかっちゃう」。
 海外で発生した病気にしても、輸入を制限すればいいという問題ではないという。
 「地球、宇宙っちゅうのはひとつのもんやからね。みな繋がってますわね。いくら島国の日本であってもね。(感染した)鳥が飛来する場合もあるしね。それに対応できる魚を作ってあげんことにはダメやと思いますよ」。
 取材に訪れたのは1月の半ば、通常なら秋に上げた当才が、加温されたハウス池の中で春を待っているが、中野養鯉場の当才はまだ野池にいる。サンプルとして10数尾が店内にいるが、そもそもハウス池自体がない。
 「抵抗力がつくような飼育方法をやってほしいですな。愛好家は健康に満ちた魚を求めとるわけです」。

2次産業
 昨年、中野養鯉場では、御三家各1腹を採ったが、ここではオリジナルの品種も生産している。これは単なる遊び心ではなく、業界を憂う心から始まった。
 最初は金魚の改良から着手した。
 「今、(消費者は)外国産に目が移っとると。それを食い止めないかんのやから、なにか挑戦できる金魚を作らないかんなと、第一にそう思うたんです」。
 そして強くあるべきだと、中野氏がその考えに至ったのは15年前。バブルが崩壊し、錦鯉業界も苦境に入っていく。
 「ええ時代が、ずっと続けばええけど、ひとつケッチンくろうたら、この業界は一番脆い。なぜかと言うと、2次産業です。あってものうてもいい。生活に必要な1次産業だったらまぁまぁ強いですね」。
 施設やその維持に、あまりにお金がかかてしまうようでは、愛好家が離れてしまう。そんな危機感が中野氏を突き動かす。
 「この素晴らしい歴史、文化を守っていくためには、強い素晴らしい魚を発信ささんことには継続性がないんだと」。

企業秘密
 写真を掲載した中野養鯉場オリジナル品種は、どこから始まり、どういう交配を繰返してきたかは企業秘密ということで、最後まで語られることはなかった。
 だが、取材中に中野氏が発した言葉や、渡された名刺などにいくつかのヒントがあるように思える。
 まず、その始まりの品種だが、中野氏にヒントでも、と催促すると、錦鯉の成り立ちから語り始めた。そして、「まず原点に帰らなければ」とも口にした。とすると、真鯉もしくは野種に近い品種が始まりだったのではないかと推察できる。
 強い鯉を作るのがテーマなら、これは想像に難しくない(野種に近いことは中野氏も認めてくれた)。
 そして渡された名刺。その肩書は淡水魚類開発研究所、研究者とある。裏を見ると、遺伝子組換魚第1号黄金小金錦完成との表記。この操作を鯉に施しているのかは分からないが、遺伝子は独学で勉強し、そのうえで、金魚と鯉との交配を行ったことは、中野氏の口から聞くことができた。
 金魚との間に出来た仔に生殖能力があるのか尋ねると「ある」ときっぱりと答えたが、これは当方の勉強不足で何とも言えない。しかし、店内には三色の模様や、紅白の緋盤が乗った中野オリジナルの金魚がいたこともあり、事実かと思われる。
 ついでながら、オリジナル品種が結果的にすべてドイツ種であることも、なにかのカギになるのかと考えたが、これは「ドイツは弱いと言われとるから、挽回させてやらんと。これも挑戦」と一蹴された。

1品種10年、そしてまた10年
 これまで、中野氏は10品種ほどのオリジナルを作ってきた。
 しかし、その中で品種名が確定しているのは「光竜虎」のみ。
 これは星野阪神がリーグ優勝した時に出来た品種で、記念のTシャツまで作製している。
 「富士天竜」という鯉も撮影したが、これはまだ親が確定しておらず、開発途上だ。
  中野氏によると、オリジナルと呼べるまでになったのはここ1〜2年のこと。
 「1品種に早くて10年かかる」と中野氏は言う。とにかく、”その鯉”だけを作るというのが難しい。
 「1代交配だったらナンボでもいいのができるわけ。でも“それだけ”を作って親を固定するのに時間がかかる」。
 分かりやすく人間に例える。
 「ハーフは綺麗やろ?だけど2代、3代になると違ってくる。鯉も一緒」。
 最後に、さらに新しい品種の開発を考えていないのか尋ねた。例えば、和鯉など…。
 「もう10年生き長らえたら、素晴らしい鯉をね。和鯉も可能性はあるよ。和鯉で縁どりのある模様の魚を作ってみたいな。衣じゃなくて、紅白の緋盤で」。
 想像を超えた発想に、一瞬黙り込むと。
 「必ず作ります」と笑ってくれた。

中野重治氏   昭和2年2月22日生まれ。
奈良県大和郡山市、中野養鯉場4代目。齢81にして、さらに先の10年を目指す。

吹きさらしの展示池
書面も嗜む。「福を待つ(松)鯉)